3月22日予定よりだいぶ遅くれて生まれる。

幼少時

 

母親曰く「小さい頃はなんでも歌にしていた」そう。覚えていないのだけど、2歳の頃に「ピアノがほしい。ピアノがひきたい」と言って泣いていたらしい。一体どういうことなのか。3歳からヤマハピアノ教室にてピアノを習い始める。

天真爛漫に育ち「好きじゃないから」という理由で体育の授業を倉庫に隠れて過ごすという自由奔放な少女でした。

 

お父さんの車の中で流れてくるのはもっぱら「ユーミン」「T-SQUERE」「山下達郎」でも一番ユーミンが多かったかな、歌詞の意味もわからずに一緒になって歌っていました。「ソファー♪」とかね。当時はソファーの歌だと思ってたら、「so far」だったのね。大人になって知りました。

今でもユーミンの曲は歌詞がわからなくても語感、音感で覚えてて、パッと歌えたりします。私の楽曲にどこかしらユーミン感があると言われるのは、この時の刷り込み?かもしれません。

二人弟が生まれ、弟を男らしく育てるため笑、あえて自ら「男らしい姉」になることを決意。その頃は男三兄弟と思われることもしばしば。

しかしなぜか下の弟二人の方が繊細に育ってしまいました。笑

 

風邪も引かずに元気が取り柄のようなこの頃。

更にやんちゃ度を増していくのでした。

 

小学校~中学校

 

小学校では音楽とバスケットに夢中になり

地域のお囃子も習い始め、お祭りではお囃子の笛を吹いていました。小学校の恩師、藤巻先生に出会い更に音楽の楽しさを知る。

中学入学を期に愛知県へ引っ越すことなり、一時東京のお友達とお別れ。

愛知県の中学は音楽の盛んな学校で、ここでもまた良い音楽の先生との出会いがありました。

 

洋楽に出会ったのもこの頃。

テレビから流れてくる流行りの音楽にあまり興味が持てずに担任の先生に先生もの好きな、良い音楽を教えてほしい、と言って先生が貸してくれたのは

「カーペンターズ」のCD。

(この学校では担任の先生と毎日、交換日記のようなことが習慣になっていました。今思ったら、先生も大変だったろうなぁ、と思います。)

 

そして、クラスメートの男の子でやたら英語の発音が上手な子がいる。別に留学してたわけでも、ネイティブでもない。なぜ?!彼は洋楽ファンだったのです。そのクラスメートの男の子からもCDを借りました「シンディ・ローパー」でした。その頃が洋楽との出会いです。この頃洋楽ばかり流れていたJ-WAVEを聞くようになりました。ラジオからは「マライア・キャリー」や「ホイットニー・ヒューストン」が流れていて、外国の人の歌のうまさに驚きながら憧れていました。なぜこんな風に自由に歌えるのか、とおもっていました。

 

しかしその頃はまだ私は歌ではなく、吹奏楽に夢中。朝練、筋トレ、笑スポ根のような部活を送っていました。

中学校一年生の時に先生に「出なさい」と言われるがまま出た吹奏楽コンクール、ソロ部門ピッコロソロでまさかの金賞。その時吹いたのはスーザの「星条旗よ永遠なれ」とにかく朝練、朝練。毎日授業が始まる前にちゃんと練習しに行っていました。その頃の自分、えらいなぁ。笑

しかし、その年にまた東京へ引っ越をしなければならず、、、大会へはたった一度の出場となりました。

引越し後の東京の中学校で吹奏楽部に入るけれど・・・愛知の学校は吹奏楽の強豪でもあったので、東京の部活動のゆったりした空気感に「あれ?」が沢山。さらにド田舎と東京の文化の違いにカルチャーショックを受けました。多感な時期の環境変化はとても大変なことだったなぁと今も思います。

 

高校時代

 

高校時代も吹奏楽部に入部、勉強よりも音楽浸りな生活。高校の時にはラジオをよく聞いていました。毎朝ラジオで起きて、週末はずっとラジオ。

高校の国際コースに入学したのもあり、この頃はもう洋楽しか聞かなくなってました。当時流行りの「ジャミロクワイ」初めてCD買ったよね。おしゃれなサウンド、おしゃれなMV。あとは「エリック・クラプトン」の「チェンジ・ザ・ワールド」が半年以上流れていましたね。「ベビーフェイス」の「クローズ・ユア・アイズ」、「スパイスガールズ」、「グロリア・エステファン」とかね。ラジオから流れててよく聴きました。好きな曲が流れる時にMDに録って何度も聞いたりして。

 

学校ではクラスの音楽の授業を偵察に笑行ったり、社会の授業をサボって(ごめんなさい)音楽室行っては歌っていたのでした。その頃歌ってたのは「天使にラブソングを2」の曲。今シンガーソングライターとして活躍する親友とこればかり歌っていました。

「OH HAPPY DAY!」とか、「JOYFUL JOYFUL」とか。この映画に衝撃を受けたボーカリストって結構いると思うんだよね。

 

そろそろ受験の準備をしなければ、と予備校に入ったところで、謎の激痛が身体を襲い、歩行困難となり三日三晩七転八倒。

原因わからぬまま、痛み止めを飲みつつ学校にかようも、ついに階段が登れなくなり、ついに学校に通えなくなりました。

なんとかたどり着いた東京女子医大で「難病」である可能性が高い、ていうかほぼそうでしょう。診断されたのはSLE(全身性エリテマトーデス)でした。、突然の入院生活がはじまりました。

高校卒業後2000年代~

 

何度か入退院を繰り返しながらも、高校はなんとか卒業。

なにがしたいんだろう?浮かんできた言葉は「歌う」だった。その時に「私は歌うんだ」と、本当に閃光が走ったように気づきました。

 

リハビリのつもりでバイトをはじめるが、身体がもたない笑ほとんど怠け者のようにしか見えない私に周囲はイライラ。

洋楽ばかり聞いていた私は「ジャズ」に興味を持つ。

「なぜこんなに自由にかっこよく歌えるんだろう?」

それを紐解きたかった。

 

そして初めて歌を習い始めました。

最初の先生がこれを聴きなさい、と教えてくれたのは「エディット・ピアフ」と「ビリー・ホリデイ」そして「ホリー・コール」

 

前者二人は10代の私には強烈過ぎて、まだよくわかりませんでした。本気で聴こうと思ったら勇気とカロリーがいる二人だと思います。

両親を説得して、音楽の学校に通わせてもらう。そこでジャズ理論やら、コードやらを学ぶ。

 

そこでバークリーから帰ってきたばかりの石井智子さんに師事。発音のディレクション、スキャットの基礎を学びました。

けれどもやはり「現場が一番の勉強の場だろう」と気付き、その頃から勇気を出してライブハウスに行ってみることに、、、、。

2010年頃

 

専門学校を卒業したものの、体力や自分の身体に自信が持てず、迷っていた頃。この頃再びSLEが再発。

この時の入院はとても長く、苦しいものになりました。薬の副作用で世界が暗闇になってしまった。ここから社会的に復帰するのに約3年ほどかかったと思います。

なんとか「自分」を見つけなくてはいけない、「私」が「私である存在理由」それは「歌うこと」でしかないと再び強く決意し、プロとして歌うことを決意。

その後ライブハウスで歌を歌い始める。

 

 

2012年

 

色んな方の後押しもあり、気の合った同年代のミュージシャンでピアニストの中嶋錠二くんと初のスタジオレコーディングに挑戦。

この時、4曲入のミニアルバムを制作予定で、半日でレコーディングして、半日でミックスをするという、今考えても強行スケジュールでレコーディングを行いました。

その時のディレクターをしてくださったN氏のこだわりもあり、最近めっきり少なくなったアナログレコーディングに挑戦しました。(現在、デジタルレコーディングが主流)見たこともない大きなテープを回して録音をしました。

当日、収録予定をしてた楽曲がなかなかうまく歌えず、「ちょっと息抜きしようか」と自由に演奏した1発録りの楽曲が2曲採用になりました。半日レコーディングで全ての力を出しきって、スタジオのソファに倒れ込んでいました。その後2週間くらい、風邪というか体調を崩してしまったのをよく覚えています。

 

2012年5月にレコ発ライブを大塚オールインファンで行いました。その後、中嶋錠二くんと新潟などツアーにでかけました。

本当は東北も一緒に回る予定でしたが、再び持病が再発してしまい、錠二くんには彼のバンドのベーシストと二人で回ってもらいました。

 

2014年

 

復帰してから、セッション的なライブではなく、音楽を一緒に創るようなライブをしたいと思うようになり、ピアニストの成田祐一くん、マルチプレイヤーのトオイダイスケくん(バンドではベーシスト)ドラマーのセバスティアン・カプティーンと一緒にジャズユニット「colors in silence」を組みました。この時はまだジャズのカバー曲を中心に歌っていましたが、彼らと創るサウンドが好きで、Colors in silence用にアレンジしたスタンダードなど演奏していました。

 

2015年

colors in silence の定期的に行っていたライブで、本格的ライブレコーディングをしてみたらどうか、という打診があり、やってみることになりました。ライブレコーディングは大久保のブージーミューズで行いました。個人的には1曲めの「Alice in wonderland」は実際にライブも1曲目だったこともあり、声の震えが気になります笑 その辺りも臨場感として楽しんでみてください。このライブレコーディングを終えて、いよいよオリジナルを作ろう、という気持ちが大きくなってきます。

その後ライブをさせてもらった水戸の森の音楽会にて初めてのオリジナル曲「約束の日」を持っていきました。入院生活を終えて、戻ってきた私を「待ってた、待ってたよ」と心からの愛で迎えてくれたその気持に応えたくて作った楽曲でした。

 

 

 

2016年

 

オリジナル楽曲作りを本格化させていきました。大石学さんとお話する機会があり、サウンドプロデュースをお願いすることになりました。全曲オリジナルアルバム「Seven stories」の制作へと入っていきます。

 

音楽を深めていくうちに、自己表現とはなにかを考え始める。現在はオリジナルソングの制作に力を入れている。